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日本キリスト教団 新松戸幸谷教会

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コラムcolumn

イエスの足跡

徴税人マタイの招きについて 徴税人マタイの招きは、一人の人の人生を大きく変えるドラマだった。
 ガリラヤ湖畔のカファルナウムで主イエスと出会った人に徴税人のマタイがいます。マタイによる福音書9章9〜13節まで、その出来事について記してあります。マタイは収税所に座っていました。そこに主イエスが通りかかり「わたしに従いなさい」と声をかけられたのです。マタイは、その招きに躊躇ぜず主イエスに従いました。

 この時代カファルナウムの町の近くに収税所がありました。それはダマスコからガリラヤ湖のカファルナウム近くを通って地中海に抜ける「海の道」と言うのがあります。この道は地中海を渡ってロ−マに通じていくのです。この収税所では交通税などの税金が徴収されていました。マタイが、このような収税所に座っていたのか、それともユダヤ人から神殿税や10分の1税、人頭税などを徴収するところに座っていたのか、そのどちらであるかわかりませんが、ともかく人々から嫌われ孤独の中で収税所に座っていました。

 マタイが弟子として招かれる出来事は、マタイによる福音書の他にマルコによる福音書2章13〜17節、ルカによる福音書5章27〜32節に記してあります。比較してみますと、まず名前ですがマタイによる福音書では「マタイ」となっているのに対してマルコ、ルカではヘブライ名の「レビ」となっています。マルコは「アルファイの子マルコ」と丁寧に説明しています。

 徴税人はユダヤ人から嫌われていました。と言うのは彼らはロ−マから徴税を請け負うかたちで徴税していました。請負制度ですから水増しして、その水増し分を自分の懐にいれることが出来たのです。そのような不正の問題と、それとユダヤ人は、ロ−マは異教を信じる人達である、徴税人はそのロ−マの手先になって働いているのは売国奴のようなもので許せなかったのです。それに異教を信じるものは汚れているという宗教的な理由が加わっていたのです。ユダヤ教のラビによると「徴税人が悔い改めるには、彼らが不当に取り立てた額に、さらに5分の1を加えて民衆に返済しなければならない。しかし不特定多数の民衆から徴税するのであるから、その正確な返済は不可能である。従って彼らには悔い改めは不可能である」(新約聖書注解T マタイP74)と言われるほどです。
 ところで、なぜマタイによる福音書では徴税人の名前が「マタイ」で、マルコ、ルカによる福音書が「レビ」なのかです。この名前の違いは不思議です。このことについてはいろいろな学説があります。一つにはマタイとレビは同人物という考え方があります。しかし、マタイ、レビともヘブライ名で、二つともヘブライ名を持つことは有り得ません。二つにはマタイとレビは別人物という考え方があります。これだとマタイは12弟子、レビはそれ以外の弟子となります。三つはマタイによる福音書の著者がマタイが12弟子の一人で、しかも徴税人であったことを知っていたので、マルコ、ルカにある12弟子でないレビの名前を書き換えたのだ、と言う説があります。どうも、この説が有力なようですが、はっきりしたことはわかりません。

 後世、このマタイが福音書を書いたと言われるようになりました。しかし、今日ではそのことは認められていません。と言うのはマタイによる福音書の著者はユダヤ人キリスト者として旧約聖書を知っていて、主イエスを預言の成就者と位置づけ、ユダヤ教の律法学者、ファリサイ派の人々との軋轢の中で自分なりの立場を持っていたこと、また山上の説教に見られるように高い倫理観を持っていたこと、さらには70年のエルサレム神殿崩壊後ロ−マによってユダヤ教がエルサレムからヤムニアに追放されました。その後ユダヤ教はナザレ派(今で言うキリスト教)を追放しましたが、一部の人達がシリア(マタイ4章24節)に教会をつくったようです。その教会ではユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者との対立等、様々な問題が起こりましたが、その中で教会がどのようにあるのか、という教会論を展開しているところから、著者は徴税人のマタイではないと言われるようになりました。このように考えますとマタイによる福音書の特色の一つは「教会論」にあるように思えます。

 それではマタイという人は、どのような人物だったのか。残念ながらペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネのような弟子の名前が福音書に散見されるほど出てきていませんし、またペトロは、その人となりが詳しく記してありますが、マタイと言う人については書いてありません。

 しかし、ルカによる福音書5章28〜29節に「彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。」とあります。ここにマタイの人となりが出ています。徴税人であることで人々から軽蔑され、無視されて孤独の中で生きていた時に、通りかかった主イエスから声をかけられた。マタイはそれがうれしかったのです。自分に声をかけてくれる人がいた、その人が噂になっているイエスであることを知って、マタイは何もかも捨てて「立ち上がった」のです。そして「従った」のです。それだけではなく感謝の「盛大な宴会を催した」のです。

  マタイは、その意味で「何もかも捨てて」、「立ち上がる」ことの大切さと、招かれた感謝を献げることの大切さを教えてくれているのです。そしてまた、主イエスは徴税人マタイを招いたように、どのような人でも招くことを教えてくれました。カファルナウムでの主イエスによる出来事は一人の人の人生を大きく変えるドラマだったのです。それはまた、私たちのドラマでもあるようです。 
 新松戸幸谷教会牧師 吉田好里


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