本文へスキップ

日本キリスト教団 新松戸幸谷教会

電話でのご相談・お問い合わせはTEL.047-345-1059

〒270-0034 千葉県松戸市新松戸2-169

コラムcolumn

パウロの足跡

キリキア、リストラ パウロが伝道した地域
キリキアの峡門

 パウロが伝道した地域は、今日で言うとトルコ、ギリシャです。聖書にはトルコ、ギリシャの地形のことまで書いていません。第1回の伝道旅行は船でキプロス島からトルコに入りピシディアのアンティオキア、イコニオン、リストラ、デルベを往復してアタリアから船でアンティオキアに帰りました。第2回は陸路を通りアンティオキアからタルソス、デルベ、イコニオンを経てトロアスに行きました。

 問題は陸路です。第2回の伝道旅行について使徒言行録15章41節から16章1節に「そして、シリア州やキリキア州を回って教会を力づけた。パウロは、デルベにもリストラにも行った。」とあります。先ほどアンティオキアからタルソスに寄ってデルベ、イコニオンに行った、と記しました。使徒言行録にはタルソスに寄ったとは書いていません。これは自明のことだからと思われます。その理由は一つにはタルソスはパウロの生まれ故郷だからです。第2にはデルベに行くためにはタルソスから「キリキアの峡門」を通ってデルベ、リストラ、イコニオン、ピシディアのアンティオキアの町々があるアナトリア高原に行くのです。アナトリア高原は1400メ−トル位の高原です。キリキアの峡門は紀元前1000年頃ロ−マ政府が、いわゆる関所を設置したと言われています。つまりタルソスから山登りになるわけです。高原に出た後は高原ですからアップダウンがあります。上ったり下ったりしながら歩かなくてはならないのです。当時も今も建物があるわけではありません。何もない高原を、ひたすら歩くのです。


 その道をバスで通ったときには一面麦畑でした。舗装された道をバスで、ひたすら走りました。その道路の脇に、今は使われていない廃墟化した宿が建っていました。そのような宿がある一定の距離を置いて点在していました。パウロは歩いたのです。町で泊まれないような場合、このような宿に泊まったのではないか、あるいは野宿したのではないかと想像たくましく描いてみました。一言で言うならパウロの陸路の旅は、大変な旅だった、と思いました。当時は「あたりまえ」と言えば、その通りなのですが、さまざまな苦労があったことは事実です。しかし、雪をかぶったタウロス山脈等の山々の景色は、とてもすばらしく人に感動を与えますが、パウロも当然この眺めを堪能したことでしょう。

 
リストラのテル(丘)
 パウロはデルベに行きました。そしてリストラに行きました。リストラの遺跡は発掘されていません。テル(人工の丘)があります。麦畑の中を通って行くとテルがあり、近くには「パウロの泉」があります。水が湧き出ているのですが、しかしここに、かってパウロが伝道した町があったのかと思わされるほど何もないところです。「パウロの泉」を見ながら、ここに町がありパウロが伝道したのだと言う思いがフツフツと出てきました。

 使徒言行録14章8節以下でパウロはリストラで足の不自由な男性を癒しました。人々は11〜12節「『神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった』と言った。そして、バルナバを『ゼウス』と呼び、またおもに話す者であることから、パウロを『ヘルメス』と呼んだ」と言いました。この当時ゼウス神殿があったのです。パウロとバルナバはリストラの人々に向かって15節以下で演説しました。それは「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです」と言うものです。

 テルを見ながら、もしかしたらゼウス神殿やあるいは列柱道路などの遺跡が中に隠れているかもしれない、使徒言行録の話を思い出しながら、いろいろなことを想像しました。
 
 新松戸幸谷教会牧師 吉田好里


日本キリスト教団 新松戸幸谷教会新松戸幸谷教会

〒270-0034
千葉県松戸市新松戸2-169
TEL 047-345-1059
FAX 047-345-2735