パウロはピシディアのアンティオケには少なくとも2回は訪れています。1回目は第1回の伝道旅行の時です。使徒言行録13章に記されています。シリアのアンティオケを出発したパウロとバルナバの一行はキプロスで伝道してアタリアからペルゲに行き、そこからアナトリア高原を登ってピシディアのアンティオケで伝道しました。パウロは、そこで会堂長の依頼によりイスラエル民族の歴史から出発して、主イエスの復活まで語りました。
その伝道の成果について使徒言行録13章42節以下に「パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ。集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た」とあります。好評を博したのです。
しかし、45節に「ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した」のです。50節に「ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した」のですが、教会は出来たようです。その後イコニオン、リストラ、デルベで伝道し、再びピシディアのアンティオケに戻ってシリアのアンティオケに帰って行きました。
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