パウロはキリキア(毛の国)州のタルソにディアスポラのユダヤ人として生まれ、育ちました。そのようなことから、パウロは小さいときからファリサイ派としてのユダヤ教を熱心に学びました。
彼の祖先が、いつ頃からタルソの住んでいたかは分かりません。彼の職業が天幕造りだったことなどを見ますと、父親も天幕を作っていたと考えられ、それなりの生活をしていたと思われます。
タルソを含むキリキア州は肥沃で綿花が栽培され、羊毛、山羊の毛の産地と言われています。天幕が作られたのは、このような理由によるものと思われます。
パウロはユダヤ教の律法を、どこで学んだのかですが、タルソにユダヤ教のシナゴグ(会堂)があったのかどうか分かりません。パウロの律法に関する知識は、相当なものですが、イエスの時代を含めてシナゴグには併設されていたと言われている「ベ−トはセフェル(律法の初級学校)」、「ベ−ルはミトラッシュ(律法の中級学校)」という学校のようなものがあって、そこで子供たちは律法を学んだと言われています。パウロも、そうだったのかもしれません。その上の学びはラビについて勉強すると言われていますが、もしかしたらパウロも、そうしたかもしれません。
また、哲学者キケロは紀元前50年頃にタルソの総督(市長)の任についていますし、アウグストウス帝の先生である哲学者アテノド−ルはタルソ出身と言われています。知識的にも豊かな町であったようです。パウロは、当然その恩恵を受けていました。そのような学びを経てエルサレムに行きガマリエルの門下生になったのでしょう。
タルソの町ですが、ペルシャ時代とロ−マの初代皇帝アウグストウスはタルソをキリキア州の首都としました。この町は商業として栄えました。特に、紀元前400年にタウロス山脈の通路「キリキアの峡門」が開かれてからはタルソからアナトリア高原を通って行き来することが出来るようになったこと、さらにキュドヌス川を行き来して地中海に出ることが出来ました。その交易は栄え、人口50万人もあったとのことです。町の人にはアナトリア人、ギリシャ人、ロ−マ人、ユダヤ人がいたと言われています。
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