2015/05 | 捨てる決意 |
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長い間整理していなかった書庫が雑然としてきたため、整理をしました。 この際、不要となったものを捨てようと思って作業にとりかかりました。古い書類などで、保管していても今後役に立つことはないもの、それと読むことはないと思われる書籍類は捨てることができました。 しかし、どうしても捨てられない本がありました。それは若い時、特に学生時代に読んだ本で、自分の思想形成に大きな影響を与えられたものです。それらの書籍は、書庫を開けるたびに目にとまることはあっても、数十年間、開くことも読むこともありませんでした。埃をかぶった状態で書庫に眠っていました。 それらの書籍をあらためて手にし、パラパラとめくってみました。この本は自分で購入した本、この本は人から薦められて、この本はレポートを書くために、そのような思いがわき上がってきました。懐かしい思いで一杯になり、捨てようにも捨てられぬ思いなりました。どこか本に対する愛着というものがあり、それが執着にもなっていたのです。結局、そのまま同じ場所に置くことになりました。 こうした経験は誰にでもあることで、自分にとって大切なものは、そう簡単に捨てることができません。一面から見れば、それは自分の分身でもあるのです。では、それらが今後生きる過程で役に立つことがあるかというと、ほとんどありません。単なる自己満足に過ぎません。 所有者がこの世に存在している間は良いのですが、いなくなれば、家族にとって問題となります。すべてが家族にも思い出の品になるとは限りません。家の中では場所ふさぎとなり、時には迷惑な存在にもなります。家族は迷いに迷いながら捨てる決意をしたり、古本屋さんに持っていったりしますが、これとて安い値段での売却となります。 こうして考えてみますと、どんなに愛着があり、執着があっても、どこかの時点でそれらを終着させなければなりません。その時を、自らがどこかで決断しなくてはならないのです。 人生の終着を考える年代になり、ため込んだままのもの、蓄えこんだままのもの、あるいは着込んだままのものを脱ぎ捨てて身軽になることの必要性を痛感しました。 |
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新松戸幸谷教会牧師 吉田好里 |
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