2016/08 | 剣は鋤、槍は鎌にー主にある平和ー |
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8月は広島、長崎に原爆が投下され、多くの犠牲者が出たこと、さらに戦争に負け日本の社会が大きく混乱したことを思い起こす月です。その意味で平和についても考えさせられる月です。 先日、テレビをみていましたら71才になる男性の方が戦争体験について話をしていました。わたしは話を聞きながら少しの違和感を持ちました。わたしの記憶にある戦争体験は年齢的に、もう少し上の方から聞くことが多かったのです。 1945年8月に戦争は終わりました。わたしは、その年に生まれましたので、戦争のことは何一つ記憶がありません。記憶にあるとすれば、もう少し時間が経ってからのことで、特に食べ物が分でなかったこと、生活も決して楽ではなかったこと、そして両親に連れられて上野に行った時に多くの子ども達がいたこと等、漠然としてしか覚えていません。ですから、71才の方が戦争のことを話しているのを聞いた時に1才の時のことを、そんなに覚えているのだろうかという思いが出てきました。 それと同時に戦争と広島、長崎の被爆体験の話が出来る人が年々少なくなっていることです。戦争が終わって71年になるのですから、戦争と被爆体験者は高齢化しています。あと10年もすれば体験話は聞くことができなくなるのではないかと心配しています。 また、テレビで戦争体験者が中学生に話をしているのを見ました。感想を聞かれた時に「戦争について具体的に話を聞くことが出来た」といっていましたが、このような光景は、やがてなくなる、そのようにも思いました。これも時代の流れ、といえばそうなのですが、戦争は人間社会を根底から揺さぶり,動かします。価値観倫理観を大きく変えてしまいます。そこに人間が悪魔化されていき、多くの人が犠牲となります。人類は、このようなことを繰り返し繰り返し行ってきました。この過ちを繰り返さないように努力することも人間に課せられた課題です。それは平和を求める祈りであり、願いです。 旧約聖書のミカ書4章3節に「主は多くの民の争いを裁きはるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない」とあります。神様が諸国民を統治する、ということです。この個所に関する注解書を読んでいましたら「え−」と思うことが書いてありました。「3節後半のことばは、ニュ−ヨ−クの国連本部のロビ−の高い壁面に刻まれて、訪れる人々に国連の理想である万国平和への願いを印象深く訴えている、かってベトナム戦争中に、村人が川に墜落した米軍機の金属を溶かしてヤカンなどの日用品を作っている様子をテレビで紹介していたが、これなどは平和をのぞむ庶民の大らかな不屈の魂を物語るエピソ−ドといえよう」(新共同訳旧約聖書注解V ミカ書の項)と記しています。 戦争のための武器に充ち満ちている昨今の世界、これからも地域的な対立、民族間の対立といった戦いはあるとしても、国と国同士の戦争は起こらないという保証は、どこにもありません。それだけにミカ書4章3節の主にある平和の構築を忘れてはなりません。 その意味で戦争と被爆を経験した人の話は貴重なのです。平和は与えられるものではなく、人間が努力に努力を重ねて作っていくものです。 |
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新松戸幸谷教会牧師 吉田好里 |
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