2018/05 | 手習い |
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ピアノとかの習い事は幼少の頃から始める人が多いようです。プロと言われる人は、そのような経過を辿っています。華道、茶道は女性が習うことが多いようですが、以前は結婚前にして嗜みということで習っていました。習い事が上手になるかならないかは、その人が生まれつき持っている才能による傾向が強いようです。人によってはグット伸びる人、ある程度まではいくけれども、やがて限界が来て、それ以上伸びない人、先に進まない人がいるようです。もちろん練習量が、それに関わってきます。 かく言うわたしですが、まさに「六十代の手習い」ではありませんが、六十六才になって「箏」を習い始めました。理由は小さい頃父親がレコ−ドやラジオで箏の演奏を聞いていました。それで女の子が生まれたら習わしたいと思っていましたが、全く関心を持ちませんでした。それでは自分が習おう、ということと、ある年代になったので一念発起して生田流の先生に習い始めました。 教会の牧師と言うことで音楽は切っても切り離せません。自分で分かっていたことは音楽的才能を持っていないと言うことです。小さい頃ピアノを習ったことがありますが、短期間で止めてしまいました。それは小さいながらも苦痛を感じていたからです。そのような経験がありますので、何時まで続くか自信がありませんでしたが、才能のなさと限界を感じながら習い始めて七年目になります。 何で続いたのかは一つにはある年代になり気持ちに余裕が出来たことと何かを習うことの大切さを感じこと、たまたま小さい頃父親が聞いていた箏を思い出したことによります。 それと牧師という立場からキリスト教の教えを宣べ伝える責任を負っています。教えることはあっても教えられることは、そう多くはありません。確かに信徒から、人から生き方を教えられることはありますが、それは人生上の問題です。 しかし、先生から教えられることによって教えられるとは何か、教えることは何かを学びました。それは先生の演奏を聞くことと弾き方を教えてもらうことです。 六十五を過ぎて「手習い」を始めて学んだことが多くありました。習うこと、学ぶことには年齢がないことを実感しています。 |
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新松戸幸谷教会牧師 吉田好里 |
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