目的地を眼前にして | 「主の道」を「ひとすじ」に歩みたい |
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昨年の9月から教会員の方や親しくしていた方とその関係者の方々が8名亡くなりました。考え込んでいたところに、時々買い物に行っているお店の方が亡くなりました。お店番をしていたその方のお連れあいに「最近、夫が見えないけれども」と聞いたところ「6月に病気で亡くなった」との返事でした。思わず「だって、最近までお店に出ていたじゃない」と大きな声で言ってしまいました。この方も60代の方です。その時打ちのめされたような思いをしたと同時に人間、何時どうなるか分からない、わずか数ヶ月の闘病生活で死に行く、命ははかないものと思いました。 そのような折り、読んだのが民数記33章38〜39節です。「祭司アロンは、主の命令によってホル山に登り、そこで死んだ。イスラエルの人々がエジプトの国を出て第四十年の第五の月の一日であった。ホル山で死んだとき、アロンは百二十三歳であった」。アロンの死について二つの記事がありますが、それぞれテ−マが違います。20章はアロンの子エルアザルに祭司職が引き継がれます。それに対して33章では「エジプトを出てからの旅程」でモ−セが書いたことになっています。アロンは神様が約束したカナンの近くの「ホル山」で死を迎えました。 モ−セは申命記34章によりますとエリコの向かいにあるネボ山のピスガの頂に登り約束の地カナンを見せられてからモアブの地で死を迎えました。アロンとモ−セは出エジプトしたわがままなイスラエルの民を指導しながら旅を続けました。結果として約束の地カナンに入ることはできなかったのです。その意味で「断念」を余儀なくされました。アロンとモ−セの死を通して学んだことは人生には「断念」しなければならない時があると言うことです。 ところで「断念」の意味を調べてみますと広辞苑に「思い切ること」とか「あきらめること」とありました。アロンとモ−セは約束の地に入りたいけれども入れない。入りたいという思いを「切った」のでしょうか。「あきらめた」のでしょうか。もし、そうだとしますとこれまでの自分の人生は何だったのだろうかと言うことで「悔い」が残ります。「悔い」が残ったままの「死」は惨めです。しかし、二人の死についての聖書の箇所を読みますと「悔い」を残したようには見えません。そうではなく後継者の「ヌンの子ヨシュア」に引き継いたのです。 「断念」の意味がここにあります。自分に与えられた課題を最後まで全うすることが出来なかった、しかし後の人が引き継いでいく、人生それでいいのです。その意味で「思い切る、あきらめる」ことが必要です。讃美歌463番の1番に「わが行くみち いついかに なるべきかは つゆ知らねど、主はみこころ なしたまわん そなえたもう 主のみちを ふみて行かん、ひとすじに」とあります。この讃美歌を思い出し「主のみち」「ひとすじに」歩みたいとつくづく思いました。 |
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新松戸幸谷教会牧師 吉田好里 |
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