2017/04 | 神様の優しさと人の優しさ |
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わたしたちの生活の中で「与えられている」という思いで生きるのと「奪われている」という思いで生きる生き方は随分違ってきます。与えられているという思いで生きる場合には感謝が出てきます。それとは反対に奪われているという思いで生きる場合、あれも、これも奪われたということで被害者意識しか出てきません。また、与えられることなく、ただ搾取され奪われているだけだとするといじけるばかりです。人は奪われるものがあっても、与えられるものがあれば生きられるのです。与えられることなく、奪われてばかりいるとすれば反発するだけです。教会も奉仕や献金ばかりを強いられ、喜びや感激感謝といったものがなければ教会に来る意味はありません。 キリスト教の神様は人から奪う神様ではありません。「与える」神様です。ひとり子であるイエス・キリストを、この世に遣わして人々を慰め、励まし、病や心の傷を負った人を励まして共に生きたのです。そして十字架で死にました。それは神様の犠牲の愛です。キリスト教は見返りを求めない、この犠牲の愛の上に成り立っている宗教です。 さらに、キリスト教は人間の罪を問題にします。罪は神を神としないことですが、人間は神様を信じて生きるより自分を信じて、自分の信念に従って生きることを好みます。このことにくさびを打ったのがイエス・キリストの十字架の死です。その意味で、わたしたちが十字架を見ることは神様から離れた生活をしていたという自分の罪を見ることに他なりません。 罪は人間の傷です。重い病や人生の苦しみに遭遇した場合生きる意味を失うという人生の「傷」を負います。その時に、わたしたちは人の痛みを知ることが出来るようになります。そして、同じような境遇の中で生きている人の気持ちも分かるようになります。人生には傷がなければ感じることができなかったものを、傷を負うことによって感じることが出来るようにもなります。そのことによって人の痛みを知ることが出来るようになります。 「優しい」という言葉があります。わたしたちは人の優しさを、どこかで求めています。優しさは単なる親切ではありません。「優しい」という字はにんべんが付いています。人と「憂い」という字によって成り立っています。人が憂いを持ちながら生きている、その人を見捨てることなく、傍らに佇んで共に生きる、その場合に自分自身も、人生の傷から目をそらすことなく、その傷と共に生きる、これが「優しさ」になるのです。 ヨハネによる福音書4章に「イエスとサマリアの女」の物語があります。サマリアの女性はサマリアにあるシカルの井戸に水をくみに来ました。旅に疲れたイエス・キリストは、その井戸の傍らで休んでいました。そのサマリアの女性に「水を飲ませてください」と言いました。女性は「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてくださいと頼むのですか」と言いました。それは当時サマリアの人々はユダヤ人と交際してはいけなかったのです。この女性は差別という傷を負って生きていたのです。しかし、イエス・キリストは、その女性に声をかけたのです。このところに主イエスの優しさがあります。イエス・キリスト人間の罪という傷を負って十字架で死にました。この犠牲の愛が、人間に対する優しさになったのです。わたしたちも人の傍らにそっと立つ、その優しさを持ちたいと思います。 |
新松戸幸谷教会牧師 吉田好里 |
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