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日本キリスト教団 新松戸幸谷教会

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コラムcolumn

イエスの足跡

祈りのために山に登るイエス 祈ること、そのこと自体が山に登ることではないでしょうか。
 イエス・キリストはよく山に登りました。そのうちの幾つかを引用します。マタイによる福音書5章1節「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た」、14章23節に「祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になってもひとりそこにおられた」、17章1節「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」。

 マルコによる福音書6章45節以下「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた」、9章2節「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」。

 ルカによる福音書6章12節「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」9章28節「イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた」、21章37節「それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って『オリーブ畑』と呼ばれる山で過ごされた」。
 22章39節以下に「イエスがそこを出て、いつものようにオリ−ブ山に行かれた。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに誘惑に陥らないように祈りなさい。そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。『父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行って下さい』」とあります。

 ヨハネによる福音書6章3節に「イエスは山に登り、弟子達と一緒にそこにお座りになった」、15節「イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れていこうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた」とあります。イエス・キリストが登られた山はガリラヤ湖を囲む山であったり、主イエスが変貌したところの山であったり、オリ−ブ山でした。

 問題は何のために山に登れらたのかです。そのほとんどが祈るため山に登ったのです。それはイエス・キリストが具体的に行動するために、どのようにしたらよいのか、神様の御心を知るためでした。しかも、長時間、時に夜を徹して祈られたのです。山での主イエスの祈りは真剣でした。神さまとの一騎打ちだったのです。
 ところで聖書で山は特別な意味があります。創世記にアブラハムがイサクを献げる出来事が記してありますが、場所は「モリヤの地の山の一つ」でした。出エジプト記には神様がモ−セに十戒を与えたのはシナイ山であったと記してあります。列王記上には預言者エリヤが干ばつのため、雨を降らすことでバアルの預言者と戦ったのはカルメル山でした。

 聖書で山は「聖所」を意味しています。(新聖書大辞典)出エジプト記にモ−セの召命について記してありますが、モ−セが「神の山ホレブ(シナイ山)に来た。そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現われた」とあり、その後に神様が、直接モ−セに語りかけているのです。

 讃美歌21−155番の1節に「山べにむかいてわれ 目をあぐ 助けはいずかたより きたるか あめつちのみかみより たすけぞわれにきたる」とあります。この讃美歌は詩編121編がもとになっています。表題は「都に上る歌」となっていますが、エリコからでしょうか、エルサレムに行くためには1000M近く、ひたすら登るのです。危険な旅でもあるのですが、山々に向かって目を向けた時に天地を創造した神様が助けてくれる、詩人はそのように歌うのです。まさに山は神様との出会いの場です。その出会いは神様の御心を知ることを意味しているのです。

 信仰者として今日を生きる私達は、神様との出会いを求めて、また御心を知るために、実際の山に登って祈ることが出来れば、これに越したことはありません。喧噪な日々の生活を一時離れて黙想の時を持つことは大切なことです。

 しかし、日々の生活に追われるているわたしたちにはなかなか難しい。その中でイエス・キリストが山に行ったのは祈るためであったとするならば祈ること、そのこと自体が山に登ることではないかとおもうのです。追われる日々の生活の中で一人祈りの山に登り、黙想をしたい。 
 新松戸幸谷教会牧師 吉田好里


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