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日本キリスト教団 新松戸幸谷教会

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コラムcolumn

イエスの足跡

岩の上の家、砂の上の家 私たちの人生もしっかりとした土台の上に築きたい。(マタイによる福音書7章24節〜28節)
 イエスは「大工」であったと聖書に書いてある。「大工」が、今日わたしたちが考えるような「家」を建てる大工であったのか、それとも「指物師」であったのか、「建具屋」であったのか、それとも馬、牛の「くびき」を作るような「鍛冶屋」のようなものであったのか分からないけれども、所謂「職人」として生計をたてていたことは事実である。

 マタイによる福音書7章24節以下に「家と土台」と表題した話ある。これなどは実際、家を建てた経験がなければ言えない内容である。主題は「御言葉」を聞いて行うか、行わないかのことである。

○ 御言葉を聞いて行う者
 わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。

○ 御言葉を聞いて行わない者
 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。
雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。

 この箇所は家を建てる時に岩の上に建てるか、それとも砂の上に建てるか、それによって建物は違ってくる。岩の上に家を建てれば洪水が来ても大丈夫で、砂の上に家を建てれば洪水が来ると流されてしまう。だから、人生は御言葉を聞いて、その御言葉によって生きることが大事なのだ、主イエスは言いたいのだ。

 わたしたちがこの箇所を理解する時に日本的な気候風土で理解してしまいがちで、イエスが生きたイスラエルの気候風土は念頭に置いていない。イスラエルで家を建てることは日本的な気候風土ではないのである。イスラエルは乾期と雨期にはっきり別れている。およそ11月から3月くらいまでは雨期である。雨期と言っても日本のようにシトシト雨が降り続けるような状態ではない。

 2月、3月のイスラエルではシクラメンやポピ−、アザミ等の花々が一面綺麗に咲くのは、芽が出るほどの雨が降ったことによって一斉に開花する。それと4月から10月までは乾期であって一滴も雨が降らない。

 雨期の時に「雨が降り、川があふれ、風が吹いて」とあるが、日本ではこのような状態は台風の来襲か、それとも6月の梅雨前線、9月の秋雨前線による状況と、すぐに考える。イスラエルではそうではない。雨が降ってもイスラエルの地には雨を吸収しないところがある。降った雨が岩の上を流れる、それを「ワディ」とよんでいる。

 それと「川」とあるが、イエスが念頭においている「川」の一つはヨルダン川だ。しかし、「雨が降り、川があふれ」の川はヨルダン川ではない。先の「ワディ」のことを言っている。このワディは雨が降ると流れる場所があるのだ。

 以前イスラエルを旅行した時に死海周辺をバスで走っていた。乾期の6月であったがガイドさんが「雨期になると今は枯れていますが、雨が降ると川になるところがある、それがワディで、そのワディは走っているバスをも流してしまう力を持っている」と話してくれた。ワディとなる地層は岩なので乾期には当然、そこには風などによって砂が溜まることになる。「砂の上」とはこのようなことである。

 主イエスはワディがどこにあるのかを知っていた。知っていたからこそ「家と土台」の話をしたのだ。主イエスが言うように、しっかりとした岩の上に家を建てると同じように、わたしたちの人生もしっかりとした土台の上に築きたい。

 マタイによる福音書7章24節〜28節を上記のような立場で読むと「黙想」は果てしなく広がってくる。
 
 新松戸幸谷教会牧師 吉田好里


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