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日本キリスト教団 新松戸幸谷教会

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コラムcolumn

人生の扉

2010/04 自分を抑えての愛
自分の気持ちを注ぎ込むか、自分を抑えて心を他者に置くか?
 人を愛すること、人を理解することほど難しいものはない。人生上の問題はかなりの部分それで占めている。それだけに悩み苦しみながら暗中模索して生きているのが現実である。

 「心で見る世界」(工藤信夫著)と言う本を読んだ。その本の中に、ある方の引用として「愛にはひたすら自分を投げ出して、相手に注ぎ込んでいくような面があります。それだけにいつの間にか自分が出しゃばってしまいます。自分の出しゃばった愛は、どれほど献身的であっても、もはやその名に値しません。相手をよく見て、その心を支え生かすように、自分を押さえている面が愛の生命だからです。自分をいかにそそぎ込むかではなく、自分を如何に押さえるか、愛の最大の問題はここにあります。ですから、少なくともいやな思いを相手にさせない細やかな心くばりを、愛の要諦と心得るべきでありましょう」と言う文章に目にとまった。「成る程そうだ」と思った。

 とかくわたしたちは自分を他者に「これでもか。これでもか」と自分の気持ちを注ぎ込むことが愛だと思い込んでいる。その「でしゃばった愛」が、実は相手を傷つけていることに以外と気づいていない。あるいはまた、自分の考え、意見を押しつけることがある。その場合も自分は正しいと言うことが前提になっている。所謂自己主張である。これでは相手を理解し、支えることにはならない。

 注ぎ込むことでもなく、押しつけることでもなく「自分を押さえる」ことが「愛」だと言う言葉の意味を考えてみる必要がある。

 そういえばイエス・キリストは「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネによる福音書15章13節)と言っている。友のために自分の命を捨てることほど素晴らしいことはない。しかし、このことはなかなか難しい。実際に相手のために自分の命を「捨てる」ことが「愛」だとすると、命が幾つあっても足りない。確かに主イエスは十字架に架かって死んだ。これは人間を愛すればこその出来事であり、究極な「愛」の表現だ。しかし、わたしたちはそうは出来るものではない。ここに人間の「愛」限界がある。

 ところで、「捨てる」は「置く」とも訳せる。友の心を支えて生かすように、自分を押さえて、自分の心を他者に「そっと置く」、このようなことは可能ではないだろうか。このことを心がけたい。くれぐれも他者にいやな思いをさせるようなことは避けたい。これが生きるコツだ。

 新松戸幸谷教会牧師 吉田好里


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