本文へスキップ

日本キリスト教団 新松戸幸谷教会

電話でのご相談・お問い合わせはTEL.047-345-1059

〒270-0034 千葉県松戸市新松戸2-169

コラムcolumn

学びの窓

2015/12  強いられた人生は恵みの人生

 2015年も残り少なくなりました。「一年の計は元旦にあり」と言われていますが、年頭に計画したことが、どれだけ実現し、継続されたでしょうか。思うようにいかなかった、あるいは自分の都合で、継続不可能になってしまったこともあったでしようし、自分ではなく、周辺からの都合で途中でダメになったこともあったでしよう。思い立ったことを継続すると言うことは、なかなか難しいことです。また、自分はしたくなかったけれども、さまざまな理由や周囲の都合によってさせられたこともあったでしょう。今年の終わりに「これだけのことは出来た」と言う充実感をどれだけ味わうことが出来たでしょうか。

 ところで旧約聖書の創世記にイスラエルの民の形成が記してあります。イスラエルの民はエジプトに住んでいましたが、エジプトでは強制労働を強いられ虐待されていました。モ−セはその現実を見ていました。やがて神様からイスラエルの民を率いて出エジプトの指導者として兄のアロンと共に召され出エジプトをしました。
 40年間荒れ野での彷徨を経験して約束の地カナンの、すぐ近くに来ました。申命記34章1節に「モーセはモアブの平野からネボ山、すなわちエリコの向かいにあるビスガの山頂に登った。主はモーセに、すべての土地が見渡せるようにされた」とあります。ネボ山は802Mです。ビスガの頂きは標高710Mです。この頂上からヨルダン流域,パレスチナを、具体的には死海やエリコの町、遠くにエレサレムが見えるとのことです。モーセはここに登って約束の地を眺めたのです。

 しかし、神様から言われたことは4節「あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない」と言うことでした。神様は約束の地をモーセに見せるだけで「行くことは出来ない」と言うのです。そればかりでなく、このモアブの地でモーセは死んでいくのです。
 考えてみれば、これほどおかしな話はありません。モーセが約束の地に来るまでは大変な旅でした。40年の旅の間でイスラエルの民から「水がない、食べ物がない」と言ってモーセとアロンに不平不満を言いました。挙げ句の果てにイスラエルの民は「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」と言われました。。苦労しながらの旅でした。

 長距離を飛ぶ飛行機は引き返せない地点を越えるとひたすら目的地に飛んでいく帰還不可能地点があると以前聞いたことがあります。もしエンジンが一発故障すれば、近い飛行場に着陸するようになっていますが、通常に飛んでいる場合は「ここまで来た」と言うことで燃料の関係から引き返せないで目的地に行くと言うような地点を、必ず通過します。それが帰還不可能地点と言われているようです。
 わたしたちが生きることでも、そのような地点があります。ここまで勉強してきた、ここまで仕事をしてきた、ここまで習ってきた、そう考えると引き返せない、そのような地点があります。その帰遠不可能地点に来まで迷いや動揺があります。いろいろな思いが交差します。しかし、その地点を越えたらひたすら目的に向かって進んでいく、その時には、それなりの決意を持たなくてはなりません。
 モーセを考えた場合、モーセにとっての帰還不可能地点はシナイ山でした。シナイ山で十戒を与えられた、それからは「もうやめた、こんなわがままな人々につき合っていられない」と言って放り投げるわけにはいきませんでした。神の民としてのイスラエルを約束の地に連れて行く使命を果たさなくてはなりませんでした。モーセは、このような地点を越えてネボ山やビスガまで来たのです。

 でも、モ−セは約束の地カナンに入ることは出来なかったのです。その理由は民数記20章に「メリバの水」があります。ツィンの荒れ野に来ました。ここでモ−セとアロンの姉のミリアムが死にますが、イスラエルの民は飲む水がないと言って徒党を組んでモ−セとアロンに逆らうのです。モ−セは「反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか」と言って杖で岩を打ち、水を出しました。このことをモ−セはあたかも自分の力で水を出したかのように振る舞いました。
 そこで神様はモ−セとアロンに民数記20章12節で「あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった。それゆえ、あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない」と言いました。神様にとっては、モ−セの行為に目をつぶるとは出来ませんでした。神様の聖なることを示さないことは罪なのです。

 このようなモーセの人生は一段一段階段を上っていくようなものです。しかし、最後にネボ山のビスガの頂から約束の地を見て120歳で荘厳の内に生涯を終えていきます。それは自分のなすべきことはしたと言う生涯です。しかも「目はかすまず、活力もうせてはいなかった」と言う余力を残しての死でした。
 モ−セが余力を残して一線を退くことは、わたしたち自身の引き際が、どうあったらよいかを教えてくれています。それとモーセは好きこのんで出エジプトの指導者になったわけではありません。神様から召されたと言うことでの、不承不承で指導者になりました。召されたにも関わらす、たくさんの苦労をしました。あげくの果てに約束の地に目前まで来ましたが入れなかったのです。しかしモーセの人生は未完成な人生ですが、それはそれでよかったのです。まさにモーセの人生は強いられた恵の人生だったのです。神様から生かされた人生です。その強いられた恵の人生こそが充実した人生となることをモーセの生涯は教えてくれるのです

 新松戸幸谷教会牧師 吉田好里


日本キリスト教団 新松戸幸谷教会新松戸幸谷教会

〒270-0034
千葉県松戸市新松戸2-169
TEL 047-345-1059
FAX 047-345-2735

郵便振替口座番号:
00110−6−114717